昭和51年7月5日 朝の御理解
御神徳を受けるという事。いかにも、聖人君子を目指す事のような感じがいたします。けれども語神徳を受けるという事はそういうことではない。ええ、道徳的はことではなくて、むしろ精進があるんですけれども、非道徳。祈願詞の中に「神の働きをそのままに」というところが、もう神の働きをそのままにでありあます。だから、神の働きをそのままに受ける。そこから神の働きをそのままに現す事が出来る。
そのままにというところには、私共が清と思うたり、濁。いわゆる清いとか濁ったりとかありますよね。清濁。私共が、濁っておると思うておる事が、神様の目からご覧になれば濁っておるという事にはならんのです。だから、このなんか信心はね、清らかなとか、私共が言う清らかなと。いうこと。そういうようなことがお徳を受けるんだということでけしてない。
昔から清濁。清( ? )といったようなことですけれども、実はもう清も濁もないのだ。そのままが神様の働きなのだと。私は今日そういうことを実感させて頂いとりましたらそれが太るのぞと頂きました。今月の信心のいわゆるあの、夏期信行の焦点がね、太ろうという事でしたね。太らにゃということ。ね。まあ、普通では清とか愛のみと言う人は太っ腹な人と申しますけれども、実は言うたら、信心で言うたら清も濁もない。そのままが神様の働きなのだと。
もう、こんなんなってまいり、こういうふうに頂きますとね、金光教の信心がどこまで太いか大きいか分からんです。ね。金光様の信心をすりゃあ、はっきりと( ? )し、ある人が、自分の友達金光様にえらい関心を持った人があるからどうでんこうでん導こうと言うて話しに行った。ところがその人なかなか今、羽振りがよくて、まあいわゆる難儀をしてないわけです。
俺もいっぺんどうでんこうでん参りたいと思うけれども、ん、その、きちっと清算出来てから俺いっちょ参ろうと思いよる。こう言うたというのです。( ? )というわけなんです。ね。だから、金光様信心しよってお前こげなんこっちゃ( ? )から怒られる。かえって怒られるようなこっちゃけんで、あれと清算が出来てから参ろうと思いよると言うた人があったと。
私その時分にはほんにそうだなと思いよったけれども、そんなこっちゃないですね。金光様の信心をすりゃ酒も飲まれん。肉も食べれん、女も抱かれん。ちゅうようなことじゃけしてないとです。それこそ神の働きそのままにです、ただ、なら、慎めとおうせられるから。慎みということは、自分がね、なら( ? )でも持てれる力がありゃあそれでいいじゃない。力もないのに、からいかんのです。
まあ、いかんということでもなかろうけれども、まあ、慎みというならそうだとこう思うです。ね。お座敷でする事、お台所でする事。ね。その辺の区別ぐらいはつかなければならんけれどもです。ね。金光様の信心するなら屁もへられんちゅうことじゃけしてないということ。ただ、人前も何もかまわずにブーブーやるということはいかんちゅうだけなんです。(笑)ね。
それがね、神の働きそのままになんです。ね。だから、その中には、もちろん私共の上に起きてくるさまざまな問題を、ね、問題をいうならば成り行きをいよいよ尊ばして頂くという頂き方。もうこれはいよいよ神の働きをそのままに受けていこうと言うのです。どういう事柄であってもです、ね、今日私が皆さんに聞いて頂いておるのは、ね、どういうことでもよいけれどもです、それに御の字を付けて有難いというのじゃなかにゃいけんということなんです。
ね。だから有難い心でお酒を頂き、言うならば肉食をすると。だから有難いと言うものがあるかぎり食べすぎやら、飲みすぎやらがあろうはずがありません。私は最近、泉尾の先生の三宅先生の素晴らしさということをまあ一つ一つ分からして頂くんですけれども、ええ、今月のあちらから出ておるご本も読まして頂いた。
先月のも読ましていただいたんですけれども、先月の読まして頂いておるうちに分からん事が一つ分かった。というのは、んー、何でもの願いと言う事を言われます。ね。もうがむしゃらに願う。それを私あのー、何でもの願いと言う事は、何でもどういう事であってもいうなら食べず嫌いをしないと言う事。どういう事に出会っても咽ないという事。どういう事でも合掌して受けていくと言う事。と頂いたら素晴らしい事になってきたんです 何でもの願い。意味が分からなかった。私がそういうふうにお話をいたしましたら修行生の方達が、いいえ泉尾先生の何でもの願いと言うのはがむしゃらになんでもかんでも願うと言う事です。と言うんです。そうじゃろうかと思いよったら、今月号の八波を読まして頂きよったらやっぱそのようですね。もう、なんでもかんでも願う。肉を食べる事も願う。酒を飲む事も願う。ね。いわば、食べこなせれることを願う。
先生のお話の中に、信者が難儀な問題を持ってくる。どうでもこうでも願っておかげにしてやらずにおかんという思いで願う。そして神様に、その代わりに必ずあなたのお心にかなう信者に育てますからどうぞと言うて願う。というところでございます。ね。ところが悲しい事にです、それがいつも裏切られてばっかりおるというのです。ね。どうでもというてそれこそ、泣きの涙でお願いに来るから気の毒だ、可愛そうだと思うてそれこそ神様にご無理をこれ以上は言えんというようなご無理を言うてお願いをする。
その代わりに神様この氏子を立派な信者に育てますと言うて願う。それでおかげを頂く。ところが本人は、それ( ? )でやめたり、言うならば私の思いどうりになっていかないことが悲しい。だから、その氏子の為にまた修行さしてもらうという意味の事があのかいてあります。そこを読ませて頂きよってです、まあなるほどこの先生の何でも願えと言う事はそういうことだなと。ね。
そのことを私思わして頂きよりましたら、お母さんですね。女の人がお乳をもういっぱい張らせて、もう乳が上向くぐらいに張っとるとことろを頂きました。願うとか、すがると言う事はです、けしていけない事じゃないんです。ね。ほんとにすがって、すがってすがりぬいて、ね、すがりようがたりんのです。すりむかう姿じゃだめだ。ごそごそほうていってそれこそ神様の膝にね、這い上がって行かなければすがるということにはならんのです。
遠うか所からどんどうぞどうぞって言っとたっちゃおかげにならんです。ね。その意味でです、あれだけの御ひれいですからね。それはいわゆる三宅先生の、言うなら願って願って願いぬかれる何でもの願いにたっておられるということです。して、こんやつは願うこつばっかり願うてからとまあ、言うんでない。もうほんとに親の膝に這い上がっていって求めるならばです。親はもう乳が張って痛うしてこたえん( ? )ござんなか親神様なんです。
それを飲んで味わうのじゃからまた神様も喜んで下さる。同時に飲むものもそりゃおかげで育っていく事になるのです。今日私は、ね、御神徳を受ける。あれほどしの御ひれい、御神徳でなくて、あれだけの人が助かると言う事はないと私思うです。たぶんあちらの信心はただ願う事ばっかりと言ったような感じだったけれども、その普通のもんとの願い違う。もう願って願ってもうそれこそ神様の懐の中に飛び込んでいってるような願いなんです。だから、神様の方がむしろ喜びござる。ね。
お乳が張って子供が飲まんならもうこんな親にとって切ない事はなかろうと思うんです。ね。それを私共が頂かしてもらう、飲ませてもらうおかげで親も安らか、子供も育つと言う事になるのです。清濁愛のみ。まあ、あの人は太っ腹とこう言う。ところが、信心で言うなら清も濁もないのだと。そのままが神様の働きなのだと。私共が食欲が起こるとか性欲が起こるとかと。それはそのまんまのものなんですから。神様の働きそのままなんだから。ね。
それを、食べちゃいかんとか、しちゃいかんとかというようなことはあるはずがない。問題は制限さして頂くのですから、ね、有難く御の字を付けて有難く頂くといったような生き方。いわゆるあるがままに、次はなるがままに、神の働きをそのままに頂くのですから。神の働きがそのままに現される。神の働きがそのままに現せる時にです、もうそれこそ、ただただ人間の力の限界と言うものを超えた働きと言うものは、ね、いわゆる心力無限もそこに感じずにはおれない働きとおかげになってくるのです。ね。
そして、三宅先生はいつの場合でも沢山の言葉をもって言っておられるのは、このどんぶつをと言っておられます。自分のことをどんぶつだと言っておられます。自分にはどんなものはないというわけです。ね。それでも願って願ってどうぞお使い回しをください。使うてくださいと言うて願っておる。このどんぶつを神様が自由自在に使いまわしてくださると。ね。神様に使いまわされる。だから神様がまたその氏子の為に使われてくださる。それが御神徳です。
いかにも御神徳を受けると言うことは、ね、なんか聖人君子のようになっていくことがね、いうならば、かと思うけども、私共は言うなら道徳的、道徳と言うのはあの、間違った思想をなんとはなしに観念の中に頂いとりますからね、だから、こういうような道徳的な観念といったものは捨てなきゃいけません。これは昨日竹内先生もおっしゃとるように、いくら道徳的になったって人間は助からん。病気が治るちゅうことはない。
それだからと言うて、なら( ? )のお繰り合わせを頂く事は絶対無い。道徳とはそんなにつまらんものです。人間がどこまでも作ったもんだからと言うのです。それこそ、神の働きそのままにのものでなかならければ。だからそれをまあ、道徳と言う言葉を使うならば合楽で言うのは超道徳だというふうに言われるわけなんです。だからそれが見方によっては非道徳だというふうにね。例えばなら、合楽でもです、女子癖が悪か人がどんどんおかげを頂きよると言う事実があるでしょうが。だからそげなんこつは関係はなかってす。
と言うて私は皆さんにそれを宣伝するわけじゃないですよ。(笑)ね。だからおかげを受ける、御神徳を受けるそういうこっちゃなか。むしろ神の働きそのままになんです。ね。例えばそれがです。ね。なら普通で言う非道徳的な事をして人に迷惑をかけたり、ね、人に悲しませたりこれはいけませんよね。
今月の、まあ言うならば焦点がです、太くなろう、太くなろうと言う生き方を身につけて行くのですから、信心による太くなるおかげ。ね。( ? )にわりきってそういうものでもないです。何処までも御の字をつけられると言う事です。どこまでも神の働きそのままにとしての受け方有り方なんです。そこに神の働きそのままに現しておられるまあ、一つの手本のようなものがです泉尾の先生ではなかろう。段々泉尾の先生の信心の素晴らしさがまあ、先月今月を通して分からしていただくような気がするんです。
と言うてなら、三宅先生の性格を私そのまま頂くわけにはまいりません。だからそこはどこまでもやはり、大坪総一郎の一つの個性と言うものがです、神の働きそのままに現れてくる事はもちろんです。初心、初心じゃない。信心のない人たちがね、信心すればよい。他の信心はそうかもしれません。けども金光様の御信心は、けしてだから難しい事じゃないということ。
それこそ、酒は飲んじゃならん、ね、肉は食べてはならん。と言ったような難しい事ではなくて、ね、一切を御の字をつけて頂く頂き方。または成り行きそのものをいよいよ尊ばせて頂く生き方。ね。また自分の心の中に起きてくる様々な思いも、ね、神の働きそのままに起きて来るんだと頂いて、ね、いくとところに神の働きそのままに現していく事の出来れる、信心が出来てくる。そういう、頂き、そのままに頂き、そのままに現せれる時に初めてその人は御神徳を受けた人だと言う事が言えるのじゃないでしょうかね。どうぞ。